きたかみの暮らし・歴史
川、大地、歴史、文化……。北上の豊かな自然が育むもの。
北上市は、川の長さ全国第5位(約249km)、流域面積では全国第4位(約10.150k㎡)を誇る北上川と、奥羽山脈に端を発し、豪雪地帯を流れ下る和賀川が合流する肥沃な大地に、美しい田園風景がひろがる自然豊かな街です。
その目を市内に向ければ、縄文時代の集落跡をはじめとした遺跡や、歴史的建造物が数多く存在。さらに、それらを「イエ」や「クラシ」という視点で眺めると、雄大な北上川の恩恵を受けながら、豊かな自然のある北上の地で育まれてきた人々のイキイキとした姿が浮かびあがってきます。
石を並べたモニュメントが謎を呼ぶ縄文時代。中央文化とは一線を画し独自の文化を育んできた奈良・平安時代。北上川舟運の中継港や奥州街道の宿場町として栄え、南部・伊達両藩の藩境として2つの文化が共存した江戸時代……。
この土地の風土と歴史に育まれ、この土地での暮らしを通して受け継がれてきた「北上」とは、どんな街なのでしょうか。そこに、どんな人々が暮らしているのでしょうか。
「イエ」や「クラシ」を通して、北上市と出会う旅へ。さあ、出かけましょう。
縄文の昔から、人々の暮らしを支えてきた北上川。
北上川沿いのこの地(北上市)に小さな村が誕生したのは、縄文時代早期のこと。やがて、縄文中期になると大きな村ができるようになります。それが、今からおよそ5500年前の集落跡とされる「樺山遺跡」(国指定史跡・北上市稲生)や、およそ3500年前の集落跡とされる「八天遺跡」(国指定史跡・北上市更木)です。
北上の豊かな自然の恵みを背景に、動物を狩ったり、木の実や山菜などを採取したりして日々の暮らしを営んでいた当時の人々にとって、北上川で獲れる鮭などの魚は貴重なタンパク源のひとつでした。
「樺山遺跡」には復元された竪穴住居があり、中に入ることもできます。その中で、縄文時代の人々も炉を囲み、その日の収穫で家族の団らんを楽しんだことでしょう。
また、「八天遺跡」で見つかった竪穴住居は、一般的なもの(直径5m)に比べても遥かに大きく、直径13mを超えます。同遺跡からは耳・鼻・口をかたどった仮面の部品も出土しており、集会や儀式などに使われた特別な空間ではないかとも。こうした住居の変化からも、集落が大きく成長し、文化が育まれていく様子が読み取れます。
さらに、北上市には奈良時代に築かれた「江釣子古墳群」(国指定史跡)も。「古墳」というと前方後円墳をイメージされる方も多いでしょう。しかし、同古墳群では前方後円墳とはまったく形状が異なる小円墳が120基以上も発見されており、中央(大和朝廷)とは異なる独自の文化を育んでいた様子がうかがえます。
平泉に先立つこと150年。蝦夷の国に花開いた仏教文化。
平安時代中期、中尊寺が完成(1126年)する150年も前、北上市の南東部に「国見山廃寺(くにみさんはいじ)」という名の大寺院がありました。
場所は、西に北上川の雄大な流れを望む標高およそ240mの国見山(くにみやま)。伝承によれば、最盛期にはその地に700を超える堂塔と、36の僧房があり、たくさんの僧侶たちが僧房で暮らしながら修行に励み、山地にある主要寺院ではさまざまな仏教儀式が行われていました。
やがて奥州藤原氏の隆盛とともに仏教文化の拠点は平泉に移り、それに合わせて国見山廃寺も衰退。国見山に築かれた数多くの堂塔も自然に還り、鬱蒼とした山に戻ってしまいました。
しかし、かつてこの地に大寺院があったことは伝承として語り継がれており、1963(昭和38)年から発掘調査がスタート。この調査で10~11世紀の堂塔跡が多数見つかり、平安時代中期の北東北最大の寺院跡だったことが確認されています。
9世紀の創建当時は、地面に穴を掘って床とし、その四隅に柱を立てる掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)による本堂があるだけでした。その小さな山寺が、北東北最大の寺院に成長していった過程を想像すると……。
当時の建物が残っていないのは残念ですが、北上川の流れのそばで花開いた仏教文化の息吹は、伝承として語り継がれるほど地域のなかで誇りとなり、およそ1000年のときを経て現代に姿を現すきっかけとなった事実にロマンを感じます。
舟運と宿場町で発展。江戸時代に育まれた“おもてなし”の風土。
江戸時代になると、年貢の米などを輸送する手段として、全国各地の河川で舟運(しゅううん)が発達します。もちろん、全国第4位の流域面積を誇る北上川も米を運ぶ大動脈として活躍します。が、北上川は河口(宮城県石巻市)から北上すると、北上市のところから浅瀬や岩礁が多くなり、大きな船は航行できなくなります。
そのため、北上市は上流から小型船で運んできた米を大型船に積み移す中継港として発展。黒沢尻河岸(くろさわじりかし)と呼ばれた港には、舟運業務を司る盛岡藩の役所をはじめ、蔵、造船所があり、船頭や水主(かこ=乗組員)、小型船から大型船へ米を積み移す人々などでにぎわっていました。
また、内陸部に入ると奥州街道が南北を貫いており、その行程には北上川に合流する和賀川を舟で渡るルートがありました。ただし、この渡し船は大雨などで増水になると川留め(安全のため渡し舟を運休すること)となるため、北上市は舟を待つ人々の宿場町としても発展することに。
北上川の舟運の中継港として、また奥州街道の宿場町として、水陸両方で“ヒト”と“モノ”が活発に行き来し合う環境が、人々を受け入れる北上市の“おもてなし”の風土を育んできました。
他に先駆けて独自で工場を誘致。人口も増える未来あふれる街へ。
北上市はその後、北上川に合流する和賀川上流で鉱山開発が進み、にぎわいをみせますが、昭和初期に衰退。そして、終戦後の1953(昭和28)年に地域の産業振興を目的として、近隣の1町8カ村で「工場誘致促進協議会」を組織。このうち1町6カ村が翌年に合併し、北上市が誕生しました(1991年にさらに1町1カ村が加わり現在に)。
北上市は、これを契機に他の市町村に先駆けて、独自で積極的に工場誘致を推進。しかも、江戸時代より奥州街道の宿場町として栄えるなど古くから交通の要衝であり、南北を国道4号線、東北自動車道、JR東北本線、東北新幹線などが貫き、JR北上線や秋田自動車道が秋田とつながり、空を結ぶ「花巻空港」へもクルマで30分の距離に。
こうした交通の高い利便性も強みとなり、現在では半導体や自動車の他、機械、パルプ、食品、医薬品など、幅広い業種の企業が立地。工場団地は10カ所を数え、総面積は約690ha、進出企業は270社を超えるなど、東北有数の工業集積都市として発展してきました。
ちなみに、それは数字にも表れており、製造品出荷額・付加価値額・従業員数は県内上位に位置しています。
さらに注目は、工業出荷額はもちろん農業出荷額においても岩手県内有数の集積を持つ点。北上市の暮らしは、北上川に和賀川が合流し肥沃な大地を形成するこの地にしっかり根をおろし、工業・農業両面でも活発な街となっています。